【すでに読んだ13万人にも役立つ書評と感想】『SHOE DOG』フィル・ナイト NIKE(ナイキ)誕生秘話

『SHOE DOG』の書評と感想アイキャッチ画像

この記事ではNIKE(ナイキ)創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』の書評と感想についてご紹介していきます。
これは「自分の人生のすべてを捧げても実現したい夢がある」すべての人に読んでほしい本です。

ナイキの創業者、フィル・ナイトは自らが描いた大きな夢を実現した、近代の偉大な経営者の一人です。

「SHOE DOG」という言葉は、靴の製造・販売・デザインなど、靴に関わるすべてに身を捧げる人間のことを指します。
この本には、そんなSHOE DOG達が数多く登場します。彼らがどのような思いでこのNIKEというブランドを育ててきたのか。

次々と訪れる逆境を、フィル・ナイトはどのように乗り越えてきたのか。
今回の書評では、フィル・ナイトをはじめとしたSHOE DOGが歩んできた道から、夢を実現するための成功法則を厳選してご紹介したいと思います。

『SHOE DOG』の著者フィル・ナイトについて

シューズブランド、NIKEの創業者。
オレゴン州ポートランド出身。オレゴン大学卒業。大学時代は陸上チームに所属。中距離ランナーとして、伝説のコーチ、ビル・バウワーマンの指導を受ける。
1年間のアメリカ陸軍勤務を経て、スタンフォード大学大学院に進学。
MBA(経営学修士号)取得。

『SHOE DOG』のあらすじ

Photo by Curtis MacNewton on Unsplash

ナイキも、きっかけは日本のオニツカをアメリカで販売することから始まった。
単身、日本へ渡りオニツカへ直接販売権の交渉を行った。

その時の会社名はブルーリボン・スポーツ。フィル・ナイトが陸上競技で勝ち取ったブルーリボンからつけられたもの。

交渉の結果、見事アメリカでの販売を開始することができたが、フィル・ナイトの前には次々と逆境が訪れる。
その過程でブルーリボン・スポーツからナイキへと社名を変更。

オニツカの販売代理店から自社ブランドの販売を開始することになる。
その後も次々と訪れる逆境を乗り越え続け、最終的に1980年に株式公開をするところまでが描かれている。

『SHOE DOG』の必読ポイント

ここでは『SHOE DOG』を読む上での必読ポイントについてご紹介していきます。

一歩目を踏み出すことの大事さ

挑戦する前から、「自分にはできない」「多分ダメだろう」と決めつけるのではなく、まずは「自分ならできる」と考えて一歩を踏み出してみること。
0から1を始めるほうが、1から1000へと進んでいくよりも力が必要なのです。だから、踏み出すことさえできれば、あなたの夢は実現に向かって動き出す。

最初の在庫を売るための販売戦略

非常にシンプルな戦略。様々な陸上競技会に向かい、レースの合間にコーチ、ランナー、ファンらと談笑し、それからシューズを見せる。反応は決まって上々で、注文が間に合わないぐらい。

このシューズを履けば走りはもっと良くなると、フィル・ナイト自身が信念を持ってセールスしたからこその成果。

フィル・ナイトに訪れた危機とその乗り越え方

Photo by Braden Collum on Unsplash

ナイキの創業者フィル・ナイトは数々の困難にみまわれながらも会社を成長させてきました。
そんなフィル・ナイトに訪れた危機と、その乗り越え方について解説していきます。

サンプルが送られて来なかった事件

オニツカの代理店になる際に、サンプルを手に入れるために50ドルをオニツカに送ったが、いっこうにサンプルが送られてこなかった。
シューズが届くまでに、生活をするためお金を稼がなくてはならなかったため、会計士として働くことで日銭を稼いだ。
翌年の1964年にやっとサンプルが届いた。

代理店販売の差し止め命令事件

マルボロマン(マルボロの宣伝モデル)と呼ばれるレスリングコーチから、自分がアメリカでの独占販売を委託されているので、フィル・ナイトが行なっている代理店販売を止めろと命令してきた。
オニツカに直接ミーティングを打診し続けたものの、しばらくの間返事はなかった。そこでフィル・ナイトはもう一度、自ら日本へ行き交渉の場をつくってもらうことにした。

最終的に、社長のオニツカと直接交渉する機会を得たフィル・ナイトは、アメリカ西部13州でのトラックシューズの販売権を勝ち取った。

競合による領土荒らし事件

マルボロマン再び。彼は全米向けの広告を掲載し、ブルーリボン・スポーツが下地を築き上げてきたエリアを狙いに来た。

三度、フィル・ナイトは日本のオニツカへ直接交渉をするために訪れた。

そして、オニツカが求めていた東海岸での展開ができると告げた。
ただし、実際にその時には東海岸のオフィスは用意できていなかったが。

フィル・ナイトはそのハッタリを現実にするため迅速に行動した。
仲間である正社員第1号のジョンソンを説得し、東海岸での販売を開始させた。

アディダスによる新作シューズ妨害事件

新作のシューズを「アステカ」と命名しようとしたところ、アディダスが同じアステカという言葉を使った「アステカ・ゴールド」を発表しようとしていたため訴えると脅して来た。

「アステカ族」を追い払ったのは「コルテス」(コルテッツ)だという会話から、名前を「コルテッツ」にすることで解決した。

ナイキ誕生事件

オニツカがブルーリボンと手を切ることを計画していて、アメリカの複数の販売店に接触していた。
メキシコの工場カナダに、オニツカとの契約をしていないフットボール用にのサッカーシューズの発注をした。(オニツカとは陸上用のシューズの契約をしていた)

そしてそのシューズに使うブランドロゴをアーティストのキャロライン・デヴィッドソンにデザインしてもらい、ここにナイキが誕生した。
現金の問題については、日商岩井からの融資と社債の発行で乗り切った。

品質粗悪事件1

カナダで生産したサッカーシューズは、見た目はクールだったが製品として耐えられるものではなかった。
日商岩井が紹介してくれたソールという靴の専門家とともに、新たに生産してくれる工場の開拓をしていくことに。

結果的にはソールの息子、ソール・ジュニアとともに広島・久留米の工場へ行き数種類のシューズを発注した。

品質粗悪事件2

オニツカから契約を打ち切られた。そしてその時点ではナイキは品質に大きな問題を抱えていた

オリンピック予選で、出場者に片っ端からシューズを配った。
その後、ルーマニア人のテニスプレーヤー、イリ・ナスターゼにナイキのブランドを身につけてもらう、宣伝契約をとりつけた。

また、オレゴン生まれの陸上選手、スティーブ・プリフォンテーンをブルーリボンの社員にし、その上で広告塔にした。
この頃には、アスリートが試合で履くに耐えうる品質になってきていた。

ブルーリボン訴訟事件

オニツカが日本でブルーリボンを訴えてきた。
アメリカで契約違反と商標の侵害だとして、オニツカを訴えた。

いとこの弁護士ハウザーに依頼し、他の関係者たちとともに対策を立てていった。
そして、最終的にブルーリボンは裁判に勝つことができた。

日本の円相場の変動事件

1972年以前までは360円で一定になっていた日本の円相場が激しく変動し、シューズの製造を日本の工場に任せていたため影響が大きく、経営に不安定さが出ていた。

日本以外での新しい工場を探す中で、ニューハンプシャー州のエクセターの工場を見つけ、その時にフィル・ナイトたちと同じSHOE DOGのビル・ジャンピエトロと出会った。
そして体制を整え、製造を開始させた。

キャッシュ準備不可能事件

バンク・オブ・カリフォルニアがブルーリボンとの取引を中止し、日商岩井に支払うキャッシュの準備ができなくなった。

ブルーリボンの帳簿をすべて開示し、日商岩井の判断を待った。
日商岩井の担当者スメラギはフィル・ナイトとブルーリボンの将来性を確信していたこともあり、最終的には、ブルーリボンがバンク・オブ・カリフォルニアに支払うべきキャッシュを、日商岩井が支払ってくれることになった。

ここに、ブルーリボンと日商岩井とのさらなる強固な関係が築かれた。

スティーブ・プリフォンテーンが早世

自動車事故でスティーブ・プリフォンテーンが早世した。

彼の死を深く悲しんでいたところ、彼が亡くなった場所が神殿のようになっており、訪れた人々は贈り物としてナイキを供えていた。
フィル・ナイトはその場所を保存する役目を担うことを決め、ビジネスに関わる限り、保存にかかる費用の工面をしていくことにした。

ナイキの株式公開

慢性的に続いているキャッシュフローの問題を解決しなければ、会社を失うことになる。
1980年12月2日に上場し、株式を公開することを決めた。売り出し価格は1株22ドル。
フィル・ナイトはそれだけの価値があると信じ、決定した。

フィル・ナイトの名言

Photo by Zoltan Tasi on Unsplash

目標に到達するまで止まることなく走り続けろ

「馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ・・・走り続けろ。立ち止まるな。目標に到達するまで、止まることなど考えるな。“そこ”がどこにあるのかも考えるな。何が起ころうと立ち止まるな」

自分の夢が素晴らしいと本気で感じているのなら、行動を起こし続けること。どんな逆境が訪れても、それは訪れるべくして訪れた逆境。それを乗り越えることで、その逆境がなければ到達できなかった場所まであなたはたどり着ける。

己を知るということ

「己を知ることは己を忘れることなり」

自分で勝手に限界を決めるのではなく、自分の信念を貫くためにできることはすべてやるという事。

不可能に思えたとしてもやるべきこと

「不可能にも思えるが、目指す価値はある」

自分のビジネスが本当に社会の役にたつものだという確信があるのなら、とにかく前を見て進む事。

成長がなければ死ぬしかない

「人生は成長だ。成長がなければ死ぬしかない」

常に挑戦をし続け、自らと社会をより良くしていくための行動をし続けること。

フィル・ナイトがナイキを成功させるために出会った素晴らしい人々

Photo by Hermes Rivera on Unsplash

ここではフィル・ナイトが人生で出会った人々について解説していきます。

ビル・バウワーマン

陸上競技のコーチ。フィル・ナイトもこのバウワーマンに教えられた。
のちにナイキの共同創業者となる。

フィル・ナイトは彼とともにビジネスをはじめたからこそ、ナイキはここまでの企業に成長させられました。

ペネロペ・パークス

フィル・ナイトの教え子。のちに妻となる。
できたばかりのブルーリボンを経理で支え、社員のみんなと良好な関係を築き、二人の子どもを育て、常にフィル・ナイトと周囲のことを考えて行動している良妻です。

スティーブ・プリフォンテーン

フィル・ナイトと同じオレゴン生まれの陸上選手。

彼の凄さは、常に限界まで自分を追い込み、それを超えようとするところ。
そしてその彼の情熱に、周りの人々は熱狂させられる。

しかし、自動車事故で早世してしまう。ブルーリボンの社員として、ナイキの広告塔として、そしてそれ以上にまわりの人間を熱狂させる情熱を持った、素晴らしい陸上選手です。
常に自分の人生を全力で生きていく姿に感動しました。

トム・スメラギ

日商岩井の社員。
彼がフィル・ナイトとNIKEに将来性を感じ、惚れ込んでくれたことが、ナイキの成長を促進する大きな力となったと感じました。

『SHOE DOG』まとめ

私はフィル・ナイトがNIKEをつくりあげ、株式公開をするまでを綴った自伝『SHOE DOG』を読んで感じたのは、このようなことです。

「一人では大きなビジョンを実現することはできない。しかし同じ志を持つ仲間と一緒なら、実現することができる」

その画期的で世界を変えるようなアイデアは、最初は一人からはじまるのかもしれない。
しかし、それを本当に実現するためには周りの協力が不可欠です。

フィル・ナイトの前に次々と現れた困難を解決できたのは、同じSHOE DOGの仲間たちがいたから。

あなたに今、人生をかけて成し遂げたいことがあるのなら、そのビジョンを周りの人にも伝えてみてください。
必ず、あなたのビジョンに共感した仲間が集まってくれるはず。

そしてその仲間に、惜しみない愛情と価値を与え続けてください。
そうすれば、あなたが描いた成し遂げたい場所まで、一緒に歩んでいくことができます。

『アルケミスト 夢を旅した少年』の名言18選と無料で聴く方法のアイキャッチ画像
【名言18選と1冊分まるごと無料で聴く方法】書評|成功する人の必読本・小説アルケミスト 夢を旅した少年 / パウロ・コエーリョこの『アルケミスト 夢を旅した少年』/パウロ・コエーリョという小説にある数々の名言は、私の人生に絶大な影響を与えてくれました。 この小...